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樺太と千島列島
■ 北方領土問題の根源は「ソ連軍との戦争終結の日」1990年代初期、政権がソ連からロシアに移行する前後
北方領土を取材した事がある。
現在では稚内からサハリンまでフェリーがあり、羽田空港からも
ユジノサハリンスクまでの直行便もあるが、私が初めて北方領土に
入った1990年当時は、新潟から飛行機を乗り継いで2泊3日もかかっていた。
東京‐新潟‐ハバロフスク‐ユジノサハリンスク-国後島
のメンデレーエフ空港。
機上にいる時間はトータルでわずか5時間ほどなのに
航空便の関係でハバロフスクとユジノサハリンスクで
それぞれ最低1泊はしなければならなかった。
この2泊3日という時間に日本と北方領土の間に横たわる
政治的距離を感じざるをえなかった。
が、ユジノサハリンスクから乗ったソ連製アントノフ26双発プロペラ機が
着陸のため高度を下げた時、眼下に広がる厚い雲の間からは北海道の緑が見えた。
地理的距離にすれば、知床半島から国後島までは直線距離にして
約25キロメートルしかなく、もし海がなければ歩いてでも行ける距離だ。
私自身、2度にわたって北方領土を取材し
主に択捉と国後の島内をまわった。
国後から択捉には国境警備隊の軍用ヘリで渡った。
その時、1941年暮れ、ハワイ真珠湾攻撃のため連合艦隊の
機動部隊が集結した単冠湾上空を写真撮影は絶対にしないという
条件で飛んでもらったが、私が行った時は波がなく鏡のような海面であった。
択捉島の切り立つような断崖の所々から湾内に落ちる滝が
数本見えて実に美しく、静寂を感じさせる光景であったのだ。
国後、択捉両島とも豊富な温泉資源があり、清涼な川の岸辺を
少し掘れば温泉が出てくる。
それを川水と混ぜ合わせて人間が入るのに適温となるように調整する。
そのような自家製温泉には何度か入ったが、景色、空気とも
実に清々しく心地の良いものであった。
択捉島の博物館のような施設には茶碗や箸、汁椀などを含む
日本時代の生活雑器などが展示されており、日本人の墓地やお寺
神社なども爆破されたような跡が残ったまま放置されていた。
北海道の北に位置する歯舞、色丹、国後、択捉を巡って
日本とソ連(後にロシア)との間で争われてきた領土問題は
戦後日本のエポックでありながらも、戦後70年の間
一般の日本人の間ではあまり関心が持たれていない。
その大きな原因のひとつは、戦争終結の日に関する
われわれ日本人の常識にあると言えそうだ。
■ ソ連に北海道占領をあきらめさせた占守島の自衛戦日本人のほとんどは、1945年8月15日に戦争が
終わったと信じ込んでいた。
が、この日はあくまでも天皇がポツダム宣言を受諾した事を
国民に知らしめ、特に
「死して虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教育されてきた大日本帝国陸海軍将兵に武器を置き
粛々と連合軍の武装解除に応じるよう、大元帥として命令を下す
という要素もあった。
したがって多くの日本人の認識とは違ってあくまでも休戦を
宣言した日であったのだ。
正式に戦闘状態が終結したのは1945年9月2日の降伏調印からである。
そのため、日本人の意識の中では8月15日から9月2日までの間
「空白の18日間」が生じた。
この間に現在まさにビビットな問題となっている
深刻な問題が引き起こされた。
それはソ連による千島列島の占領に至るまでの一連の軍事行動である。
ソ連軍はまさにその直後、8月16日に当時日本領であった
南樺太に攻め入ってきたのである。
日本軍は自衛のために頑強な抵抗を見せたが、激戦の末
ついに8月18日、ソ連軍に降伏を余儀なくされた。
それでも日本軍は粘り強い抵抗を続けたため、ソ連が
やっとサハリン全土を占領したのは8月25日になっていた。
同じく、8月18日未明にはカムチャツカ半島の砲台から占守島に
向けての砲撃を開始。
千島列島占領作戦が始まった。
大挙上陸して来たソ連軍に対して占守島守備隊が自衛のために防戦。
激しい戦闘となった。
守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌を持っていたのである。
これをソ連軍上陸地帯に集中させ、ソ連軍に戦死傷者3000名以上
という大損害を与えたのだ。
これは満州、樺太を含めた対ソ連戦では日本軍最大の勝利となった。
8月21日に日本軍守備隊とソ連軍の間で停戦交渉が成立し
この島での戦闘は終了した。
しかし、その後もソ連軍は千島列島伝いに南下を続け
北千島南端の得撫島までの占領を完了したのは8月31日の事である。
北千島で行われた日本軍の激しい抵抗により、ソ連の南下作戦は
遅れてしまい、戦略目標に重大な狂いが生じた。
それはソ連軍による北海道占領作戦であった。
スターリンは当時のトルーマン米大統領に対して
北海道の北半分にソ連軍が入り、日本軍の降伏を
受けたいという要求を続けていた。
スターリンは釧路と留萌を結ぶ線で北海道を分割し
戦後の日本占領に加わるという戦略を立てていたのだ。
ソ連軍が北海道占領をあきらめざるをえなかったのは占守島を始め
各地で日本軍が激しい自衛戦争を敢行したからである。
この事で予定が遅れ、その間に米軍が体制を整える事ができた。
トルーマン大統領は、日本本土はすべてアメリカ軍の占領下に置くとし
それに応えてマッカーサー連合国軍司令官がソ連の要求をはねつけた。
そのため、ソ連は8月22日、ついに北海道占領計画を
断念せざるをえなかったのである。
その一方でスターリンは千島侵攻を命じ、樺太から大部隊を派遣し
8月28日には択捉島を占領。
9月1日には国後と色丹島に上陸。
9月2日には歯舞諸島侵攻作戦が発動され、9月5日
無血占領に成功。
これによって全千島を占領する事となったのである。
この間、北千島とは事情が大きく違っていた。
北方4島では日本軍による自衛のための防衛戦闘が
行われなかったという点である。
次回に続きます。
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